将軍慶喜、かくして大政奉還へ
将軍慶喜の時代。もはや経済政策どころではなかった。
どうしたらいいのか名案も出ないまま、薩摩、長州は徳川を離れ、改革ではなく維新の激しい戦闘が始まった。
水戸藩の感覚では、大政奉還しかアイディアは無く、薩長連合に錦の御旗(大儀)まで取られてしまった・・・
慶喜
新しい歴史教科書
(扶桑舎)より
欧米は日本の取り込み、通商という名の市場支配を目論む。
産業革命が、大量の消費を必要とすること。それによって莫大な利益があがること。 それが解り始めて来た時代。
水戸藩は光圀の時代から、尊王派。そこからの将軍、慶喜。
どうやって大政奉還を果たすか。江戸の破壊は免れたい。公家に権力を渡したくない・・・
坂本竜馬が取りもったのかどうか、薩摩の西郷、アメリカ帰りの幕閣 勝海舟の2人が話合った内容とは。
場所は高輪、薩摩藩の屋敷。時は江戸、無血開城の前夜。
「徳川慶喜の助命、徳川家に対する寛大な処置」だけが条件だったのだろうか? 否、そんな女々しい勝海舟ではなかろう。
後に哲学館(現、東洋大学)に莫大な寄付をする男、勝海舟。
その心には、欧米列強と対峙する日本の姿があったはず。それは東洋哲学で戦うということ!
恐らく、江戸城の使い方を話したのではないか。 即ち、江戸を攻撃して政権を京都に戻すのではなく、天皇陛下をつれてきて江戸を行政の中心にすること。 天皇陛下のみ江戸へ、公家は京都に置いておけ!
天皇を軍の最高位に置いて、徳川将軍と変わったことを民衆に印象付け、それをもって 日本の軍隊組織の近代化をなすこと。
だからこそ、西郷をして「我が一身に掛けて、お引き受けいたします」と約束が出来た。
そうでなければ西郷という男、助命嘆願だけでこのような発言、するわけもない。
このページでは、家康公から続く歴史を徳川家の当主の時代で表現します。
その当主の時代に経済はどうだったか、そういう視点で捉えます。
左のリストから、当主の名前をクリックしてください。
名前の下の年号は、生年~没年です。将軍職の年ではありません。
顔のグラフをクリックしても、大きくなりません。
織田信長
1534年~1582年
豊臣秀吉
1537年~1598年
家康(いえやす)
1537年~1598年
秀忠(ひでただ)
1579年~1632年
家光(いえみつ)
1604年~1651年
家綱(いえつな)
1641年~1680年
綱吉(つなよし)
1646年~1709年
家宣(いえのぶ)
1662年~1712年
家継(いえつぐ)
1709年~1719年
吉宗(よしむね)
1684年~1751年
家重(いえしげ)
1712年~1761年
家治(いえはる)
1737年~1786年
家斎(いえなり)
1773年~1841年
家慶(いえよし)
1793年~1853年
家定(いえさだ)
1824年~1853年
家茂(いえもち)
1846年~1866年
慶喜(よしのぶ)
1837年~1913年
家達(いえさと)
1863年~1940年
家正(いえまさ)
1884年~1963年
恒孝(つねなり)
1940年~
家広(いえひろ)
1965年~