家定将軍、ハリスと謁見
家慶将軍は12年で終了。死亡したため。毒殺かも?
その後の大変なこと。斉昭派と一ツ橋派の葛藤です。
篤姫を家定に嫁がせて、斉昭は家定将軍を擁立。
病弱な家定将軍ですが、アメリカとの交渉は大詰め。ペリー提督は南北戦争中で、 日本全権大使となって来日したのが「タウンゼント・ハリス」さん。
家定
WikiPediaより
民主党議員で、聖公会というキリスト教派閥に属した禁欲主義の人。(お吉さんも大変だったでしょうね)
武器を突きつけながらの交渉は今とおんなじです。アメリカが不平等条約を結ぶ時の常套手段。
アメリカ人が日本で起こした不祥事は、アメリカが裁くという条件での通商条約。
しかし日本もまだ軍事政権。何とか「アヘンの持込は禁止する」という一筆は入れさせます。
実際はアメリカどころではない国内問題。朝廷と結託した徳川斉昭の一派は、この不平等条約に大反対。 対抗するは井伊直弼。
さりとてアメリカの武器の前に、攘夷など出来様はずも無く、外に向かって駄目なら内に向かってのいじめで対応。 即ち「安政の大獄」。 現実主義者が理想主義者を粛清します。
家定将軍は、避けられぬ謁見。ハリスとのお目どうり。「遠路ご苦労であった。日本とアメリカは今後長きに渡って、 友交を持つことだろう」と話したとか。
しかしこの時ハリスは、将軍がしゃべる前に足を突っ張るようにする行為を見て『脳性麻痺がある』と見抜きます。
ともかくこうして家定将軍から日米は、良くも悪くも、太平洋を挟んだ隣国としての外交が スタートするわけです。
このページでは、家康公から続く歴史を徳川家の当主の時代で表現します。
その当主の時代に経済はどうだったか、そういう視点で捉えます。
左のリストから、当主の名前をクリックしてください。
名前の下の年号は、生年~没年です。将軍職の年ではありません。
顔のグラフをクリックしても、大きくなりません。
織田信長
1534年~1582年
豊臣秀吉
1537年~1598年
家康(いえやす)
1537年~1598年
秀忠(ひでただ)
1579年~1632年
家光(いえみつ)
1604年~1651年
家綱(いえつな)
1641年~1680年
綱吉(つなよし)
1646年~1709年
家宣(いえのぶ)
1662年~1712年
家継(いえつぐ)
1709年~1719年
吉宗(よしむね)
1684年~1751年
家重(いえしげ)
1712年~1761年
家治(いえはる)
1737年~1786年
家斎(いえなり)
1773年~1841年
家慶(いえよし)
1793年~1853年
家定(いえさだ)
1824年~1853年
家茂(いえもち)
1846年~1866年
慶喜(よしのぶ)
1837年~1913年
家達(いえさと)
1863年~1940年
家正(いえまさ)
1884年~1963年
恒孝(つねなり)
1940年~
家広(いえひろ)
1965年~