江戸の経済史

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家斉将軍、子作りに励む

田沼意次、失脚の本当の理由は何か。それは変動相場制を固定相場制にしようとしたこと。
権力闘争なんかでは失脚しない。政治はあくまで経済で動く。歴史家はそうは書かないけど。

田沼意次の息子、田沼意知(おきとも)が、 天明4年(1784)に江戸城中で佐野善左衛門政言に切り殺されたり、 将軍家治が天明6年に病気になったことなどもあって、後継者も後ろ盾も失った意次は引退したのであろう。

家斉
WikiPediaより

急激な貨幣経済化は、農民を都会に集めてしまった。現金収入の要望からだ。今も昔も同じこと。

放置される田畑。そこに浅間山の噴火が起こり、天明の大飢饉になってしまう。 しかしこれは田沼意次の責任だろうか?
しかしこうして田沼意次は失脚。そのショックで家治将軍は病死。息子、家斉将軍が登場。

松平定信の「寛政の改革」によって、せっかく芽生えた貨幣経済、資本主義の萌芽が潰され、 日本の産業化は百年遅れたと言う人もいるが、それはどうか。
飢饉の深刻さからか、地方で頻発する百姓一揆。
田沼意次の悪徳政治家評は、この松平定信が意図的に作り上げたようだ。
民衆の不満を、悪役を作って反らそうと言う策略か。田沼意次によって登用されていた人脈も次々に粛清。

家斉将軍になって、松平定信が要職に付くと、貨幣経済に疎い旗本・御家人を借金地獄の窮乏から救うために、 札差法の改正とか金利の引き下げなどを行っている。(ほとんど今と同じ考え方のようです)

さて、家斉政権は54年続く長期政権だが、経済的な行き詰まりは解決できず、幕藩体制を維持するために、 健康だけがとりえの自分の身体を使って、盛んに自分の子供を作った。(何と側室40人!
それを地方大名に引き受けさせて血縁関係を作り、幕藩体制を維持しようと考えたらしい。
もちろんそんな考えがうまく行くはずはない。
結局それは、幕府の財政をますます逼迫させる要因となっただけ。
しかし、彼のような立場だったら、他にどう考えられるだろうか・・・贅沢三昧はともかくとして。

このページでは、家康公から続く歴史を徳川家の当主の時代で表現します。
その当主の時代に経済はどうだったか、そういう視点で捉えます。

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