結び大学の小名木善行氏が、縄文の歴史は16500年まえまで遡ると述べております。理由は出土した縄文土器の年代測定で、この数値が出てきたからだそうです。
そして小名木氏は、大東亜戦争敗戦後GHQによって神武天皇から始まる日本の歴史研究を禁止してから、日本史の研究は縄文時代の研究になったと述べ、その結果「日本の神話は本当なのではないか」という研究成果が出てきたと言うのです。
日本列島の形は縄文時代でもそれほど変わってはいなかった様ですが、それでも海岸線はもっと内側にあったとか。
つまり少し列島は小さかったそうです。
東北大学名誉教授の田中英道氏は、「縄文時代は暖かく、海面は今よりももっと上にあった」と述べ、「だから縄文時代に栄えていたのは東北から関東あたりだった」と述べておられます。
つまり、「時代と共に地球が冷却化し、寒冷化し始めたので縄文人達も南下する必用に迫られ、九州の方まで船に乗ってやってきた。これが天孫降臨ではないか」と述べております。
関東地方のあたりで勢力を持っていたのが「高天原系」で、東北の方には「日高見系」があり、本州の西側で勢力を持っていたのが「出雲系」だったというお話です。
そして歴史的には、この様な系列を越えて統治集団が生まれていたようです。(血は混ざりあっていったということ)
古事記による「国生み」の神話から判ることは、縄文時代にすでにこの列島が「島」であり、それも複数の島があることを知っていたと言うことです。
その理由として、縄文時代は全国土の交流を陸ではなく海上交通で行っていたと言う訳です。最初の頃は丸木舟のような物で往来し、やがて造船技術も発達して長距離も可能になって行ったのだろうとのこと。(もちろん現在との比較ではありませんよ。念のため)
「イザナギとイザナミ」の男女神が天から居りてきてさまざまな神様を生みますが、この天孫降臨の話は海からやってきた「高天原」の人々を指すのだろうとのこと。
この頃の九州はまだ人口が少なく、出雲のような強い豪族の支配は無かったようです。暖かいから厳しさがあまり無かったのかも知れません。
海岸線に立って水平線を見れば空と海とは繋がって見えます。つまり船に乗って来た外来者が天から居りてきたと同じ意味を持ったのでしょう。
小名木氏は、縄文時代は文字が無く、発音で考えるしかなく、日本語はその頃からあったそうで、つまり「あま」は海も空も同じ呼び方だったのではないかと言う事です。
田中教授は、「イザナギとイザナミとは、関東地方の高天原国からやって来た。おそらく鹿島から出航したのだろう。鹿島にはすでに神宮があり、その周辺からは夥しい量の縄文土器が出土している」と述べております。そして到達した九州の南側。そこを鹿島の子供と言う意味で「鹿児島」としたのではないかとのこと。
そして田中教授は「魏志倭人伝の邪馬台国や女王卑弥呼は、列島から出土する遺跡と一致しないことと、卑弥呼の伝承もないことから、偽書である」と結論しております。
この高天原の一行は、九州へ到達する前に紀伊半島に上陸し、その一部がここから内陸へと向かい奈良盆地に着いて、その立地状況から「都にするにふさわしい土地」と目星を付けていたのではないかということです。この人の名前はニギハヤヒノミコト(邇芸速日命)とか。
奈良盆地を国家の中心にしようと考えたニギハヤヒノミコトは、鹿児島に天孫降臨した先発隊の跡を追い、鹿児島から高天原の人々を奈良盆地に移住させ、そこに国家(ヤマト国)を作ったと言うのが田中教授の見解です。
この国家が出来たのが紀元前660年。その根拠は「橿原宮(奈良県橿原市)」の辺りから多くの縄文土器が発掘され、その年代を測定すると紀元前660年になるからだそうです。
日本書紀によりますと、神武天皇が描かれる歴史は天皇としての即位前であり、そして即位後の天皇を崇神天皇(すじんてんのう)にしているようだと田中教授は述べております。
だから神武天皇と崇神天皇が同じ「ハツクニシラススメラミコト」と記されていることの意味が判るとのこと。そして神武天皇が奈良の「橿原宮」で即位した都市は「紀元178年頃」とすると、日本の建国が神話ではなく歴史であるとハッキリと言えるそうです。
では、日本の建国は紀元前660年というのは嘘か・・と言えば、神武天皇以前に、ニギハヤヒノミコトがヤマト国を作ったのが紀元前660年であり、そこから日本がスタートしたと考えるべきだ・・と述べております。(土器の年代測定の結果から)
「ニギハヤヒノミコト」は高天原系の人物であり、初代の天皇と考えて良いそうで、その後の欠史8代(2代から9代までの天皇は歴史資料が残っていないために、この8人の天皇を欠史8代と言うそうです)はニギハヤヒノミコトの子孫達のことだと推定できると言うことです。
この時代、一つの名前が何代かに渡って使われていたらしいと言うことで、この頃の天皇が長寿に見えるとか。
同じ高天原系の子孫である神武天皇は、その後178年頃にさらなる国家統一を目指して奈良に向かって東征を始め、9代目の開花天皇のあとに即位し崇神天皇として日本国家を治めることになったという田中教授のお話です。
即位後「疫病」が3年ほど流行って、それを崇神天皇は大物主神を祀ることで治めたと言うことです。コロナではないでしょうけど。
田中教授は、記紀の編纂をした者たちが神武天皇とニギハヤヒノミコトを混同してしまって、詳細が書けなかったのではないかと推測されています。
縄文時代の発掘が進み、約8000年まえの稲作(田んぼ)跡も発見されているとか。神代の時代が縄文文化の時代であり、1万年を越える縄文文化の上に立って、神武天皇から始まる新時代を迎えている近代日本・・・と考えることも出来ますね。
この永い縄文時代、なぜ列島は平和だったのか。(武器が発掘されない)
おそらく激しい自然災害に立ち向かうので忙しかったからではないでしょうか。毎年来る台風、頻繁に発生する地震や火山の爆発、その都度助け合わないと全てを失う危機感が常にあったのではないかと思うのです。(また、列島は比較的に食料が豊富だったからかも。水がふんだんにありますし、海の魚もあったでしょうから)
縄文時代が終わって、弥生時代ごろから、戦(いくさ)が頻発することになるのですけど・・・