積載重量は約20kgで、これまでアメリカ宇宙船・スペースシャトルの1.5トンと比べると75分の一ですが、この回収カプセルは逆噴射ロケットが取り付けられ、エンジンを噴射して姿勢を制御しながら減速し、試料への衝撃を和らげながら降下しました。
回収場所は南鳥島周辺の海上ですが、担当者は「ふんわりと降りる技術は、有人宇宙船開発の最初のステップになるかもしれない」と話しているそうです。
我が国はこれまで試料の回収をアメリカとロシアの宇宙船に依存してきました。しかしこれでは回収に地球に来てから日本に送られるため時間がかかります。
今回の回収実験の成功で、資料回収は独自に出来るようになるでしょう。
これまで、日本の宇宙開発はH2A・Bロケットで打ち上げ、成功率97%となってきましたが、地球への帰還実績は2010年の「はやぶさ」からの帰還カプセルだけでした。
今回の逆噴射ロケットによる回収が成功したために、有人宇宙船開発が急激に進むかも知れませんね。
ISSから切り離された「こうのとり」は、一度地球周回軌道に入ります。それから回収カプセルを切り離し、こうのとりはそのまま大気圏に突入して燃えてしまいます。
切り離されたカプセルは地上からの制御によって姿勢をコントロールしながら逆噴射でスピードを落とし、そして南鳥島周辺の海域へ無事着水したと言う事です。
我が国の宇宙開発は、1955年の東京大学生産技術研究所で糸川英夫博士が行ったペンシルロケットの水平発射実験が最初でした。
「玩具のようなロケットで何が出来るか」という嘲笑を受けながらも、糸川博士は「スケールが小さくてもデータは取れる。大きくしたければ数字上で大きくすればいい」と語っておりました。
当時は核弾頭搭載のミサイルを敵国まで大洋を超えて打ち込むミサイルの時代に入っていました。これらのロケットは液体燃料が主流でしたから、固形燃料で飛ばすペンシルロケットは兵器転用は無理ということで、アメリカも大目に見ていたようです。
しかしデータだけはコピーをよこせと言う事らしく、アメリカは糸川博士の研究に注意はしていたのでしょう。
そして糸川博士が実験で得られているデータが的確なデータになっていることを、アメリカも知っていたはずです。
1957年にソビエト連邦が「スプートニク」という人工衛星を打ち上げます。アイゼンハワー政権は衝撃を受けます。もしこの人工衛星に核爆弾が乗せられていたら・・・と言うことでアイクは大統領を降りてケネディ政権が誕生します。
アメリカの宇宙開発はそこから本気になって行きます。ケネディ大統領は「1960年代にアメリカは月へ行く」と宣言しました。
ケネディ大統領は、ミサイルの大型化で産軍複合体がアメリカ経済を左右していることに不快感を持ち、その経済を宇宙開発という方向に向けさせようとしたのでしょう。
しかしミサイルと宇宙へ行くロケットは同じものです。そしてアメリカは夢と希望の宇宙開発と、地獄の戦線・ベトナム戦争の両方をやり抜きます。
我が国では、その後ロケット開発は東大の宇宙航空研究所と宇宙開発事業団、そして航空宇宙技術研究所の3つになりますが、2003年に宇宙航空研究開発機構(JAXA)に統合され、今日に至ります。
JAXAは、2007年にロケット技術を三菱重工に移転します。2011年にNASAがスペースシャトルを終了し、後継を民間企業に移転したことから、宇宙開発も民間事業になったことを受けてのことだったかも知れません。
国際宇宙ステーション(ISS)はスペースシャトルで運用されてきました。スペースシャトルの終了で日本がISSへの物資輸送を手掛けるようになり、H-2Bによる大型バス程度の大きさのカプセル(こうのとり)もISSへ輸送可能になりました。
しかし研究者の地球との往復にはロシアのソユーズシステムが使われております。
これを日本も出来るようにならないと、ISSの運用は2024年に終了と言う事になってしまいます。
そのための一歩がカプセル回収だったのではないでしょうか。小さくても成功は成功です。あとはスケールを大きくして行けば、やがて人間を地上に戻す方法として確立されて行くでしょう。
打ち上げは現在の「こうのとり」でも内装を変えれば行けるように思います。
こうしてやがて月面に日本の調査と研究の基地が出来るようになって行くでしょう。楽しみですね。